セカオワと共命鳥

セカオワと共命鳥
一体この題は何ですか
とても?です。

一つ目のセカオワは歌のグループの「セカイノオワリ」という名前の略称。
私自身も最近の歌にはついていけないので、ほとんどしらない。
昨年の紅白にこのグループがでてきたので、何これは、男3人女1人、しかも一人はピエロのマスク等かぶっていて意味不明。
歌を聞くまでもなくチャンネルを変えたような気がする。
そのことを覚えているのだから印象には残っていたらしい。

共命鳥は何ですか?
今度お寺が開創400年を迎えるということで御逮夜の法話として若手僧侶によるリレー法話をする企画がある。
その発端は副住職が現在も真宗大谷派東京教区東京5組という組織が明治時代に発行していた教化小冊子を発見したことだ。
その中に今も近しくしている住職、副住職さんたちのお寺の先先代がお話をかかれていた。
その法話を今の人たちがどのように受け止め、また今回、ご自分の考えを話していただくというものだ。
ということで古い冊子を新しく起こしていただいて印刷したもの。
その中に明治時代の西蓮寺の住職、白山兼致師の話の題が共命鳥である。

さて共命鳥とは何かというと。甲の頭と乙の頭二つの頭を持ち胃は一つしかない鳥とても変ですが。
この鳥の甲が寝ているとき乙が美味しいものを食べ、あとで胃の具合から変だと甲が気付きます。
それに起こった甲は復讐のため毒を食べるのですが胃は一つなので結局鳥は命を落とす。
お互い思いやって暮らしていかなくては、我が身に降りかかって来るというのです。

セカイノオワリの歌をたまたま聞きました。
その歌の中にSОSという英語の曲がありましたが、今日共命鳥を読んでこの歌を思い出しました。
その中に気になったフレーズがありました。
調べてみると、いじめに対するメッセージの歌です。

「誰かを救うことは、自分を救うことと同じなんだって、本当はもう知っているはずなんだ」

誰かを守ることは、自分を守ることと同じということなのです。
共命鳥と同じではありませんか、明治の人が語り、そして仏典にある共命鳥、今も昔も変わらない、解決されない私たちの問題なんだなあと感じます。
自分が可愛いばかりに臆病になる私がいます。

共命鳥
提婆達多は釈尊から仏法を聞きながら、釈尊に対して怨みを抱いていました。このことに疑問を持った弟子達は、「素晴らしい利益を得る仏法を聞きながら、何故、提婆達多は釈尊に怨みを抱くのですか?」と釈尊に尋ねられます。この質問に対し、釈尊は「このことは今に始まった事ではない」といわれ、お話になられたのが以下の共命鳥の話です。
昔、雪山の麓に身体は一つ、頭が二つの二頭鳥がいました。一頭の名前をカルダ、もう一頭の名前をウバカルダといい、一頭が目覚めている時、もう一頭は眠っています。ある時、カルダは眠っているウバカルダに黙って、たまたまあった摩頭迦という果樹の花を食べます。摩頭迦の花を食べることは、二頭ともに利益があると思ったからです。しかし、ウバカルダは目を覚ました後、黙って食べられた事に対し腹を立てて憎悪の思いを起すのでした。
またある時、二頭が飛び回っていると、今度は毒花に遭遇します。憎悪の思いを抱いているウバカルダは思います。「この毒花を食べて、二頭ともに死んでしまおう」と。そしてウバカルダはカルダを眠らせ、自ら毒花を食べてしまいます。眠りから覚めたカルダは瀕死の状態のなか、ウバカルダにいいます。「昔、お互いに利益があると思って摩頭迦の花を食べたことに対し、あなたはかえって憎悪の思いを起しました。まことに瞋恚や愚癡というものに利益はありません。この様な愚かな心は、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうからです」
そして釈尊は弟子達に、続けて次の様にもいわれました。
この摩頭迦の美花を食べたカルダが私であり、毒花を食べたウバカルダが提婆達多です。私があの時、利益をなしたのにも関らず、提婆達多はかえって憎悪の思いを起したのです。そして今もなお、提婆達多は私が仏法の利益を教えても、かえって私に怨みの心を抱いているのです。(浄土真宗本願寺派 総合研究所HPより )

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