東京サンガ9

この名前はお寺関係の者が集まって仏教讃歌を練習している合唱の会で、参加者は寺の坊守が多い。
元々、真宗大谷派には仏教讃歌はあって、私の育った寺でも父が進取の気風があったのか、小学校の音楽の先生に頼んで夜に10人ほどで仏教讃歌の練習をしていた。小学生か中学生くらいの私も駆り出されて歌っていたことを覚えている。
仏教讃歌は歌う人は歌えるというくらいであったが、今はお寺の法話の会など、行事の初めに真宗宗歌、終わりに恩徳讃を歌っている。
それが親鸞聖人750回御遠忌の法要などでご本山、真宗本廟でも音楽法要が盛んにお勤めされるようになった。
又、東京教区という1都8県のお寺の集まりの750回忌法要でも仏教讃歌が法要に取り入れられ、この団体・東京サンガ9もしっかりとした形をとって活動を始めた。
前振りが長くなったが、其の讃歌の中に回向という曲がある。回向というのはお勤めの最後に唱和する以下の文言だ。

願似此功徳
 平等施一切
 同発菩提心
 往生安楽国
正信偈の後に此の回向文で終わる。
それが、音楽法要のために和訳され歌となっている。
 願わくは一切世界の人々と
 この出会いの喜びを
 みな平等に分かち合い
 ともに仏になる心 起こして
 阿弥陀みほとけの安楽国に生れ
 生きてはたらく身とならん
と安原晃氏によって和訳された。
この歌を初めて聞いた時旋律の美しさと、この歌詞にうたれた。
いつもなんとなく正信偈の最後に称えるというだけの意識であった。

そうかお勤めの心こうなんだと私は納得した。

この歌を明福寺でも法要の折りに練習始めた。

さてこの歌の解釈だが最後の一行、生きてはたらく身とならん
私は生きてはたらく身ということを、自分自身だと思っていた。
仏教と言えば葬式、お墓、法事、など死を連想させることが多い。
仏の教えはそれだけではない、共に仏になる心を持って、私があなたが、生きて働く身となりましょうというように解釈していた。
言い換えたら日常生活を日々を生きていきましょう。
と思っていたのだが先日4月の永代経法要にお話していただいた百々海真師のお話を聞いていたらどうもそうではないらしい。
仏はいろいろな、無数の姿となって私たちにせまっている。
それは毎日の生活の中でうるさい親父であったり、いやなお客であったり、姑であったりして、其のみんなが私にとっての仏であるというお話だったと思う。そこに照らし出された自分の姿が見える。
回向はほとけの側からの呼びかけであって、わたくしの側ではない。
いかにいい加減に読み続けていたのかちょっとやるせない。
このことについてはどう解釈するのかいまだによくわかってはいない。
お話を聞くこと、もっと大事にしたいと思う。

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