1月の私

今年のお正月も済み、今日はもう2月の7日になった。

お寺の行事として元旦の修正会、門徒新年会、そして坊守が委員としてかかわってきた真宗会館の東京教区報恩講も1月26日~28日の3日にわたって勤められた。
早朝からの用事もあり練馬に一泊し。さらに28日のご満座には明福寺からもはじめての真宗会館報恩講団体参拝として10人ほどお参りをしていただいたことはうれしいことであった。

27日には報恩講の夕べという企画があり、ここ2年はご絵伝(報恩講に本堂におかけする親鸞聖人のご生涯をあらわすの4幅の軸)を、手作りの映像と音(朗読・法話)で見ていただいている。

今年は東日本大震災のことは抜きにすることはできないということで、親鸞聖人の奥様恵信尼公のお手紙から第3通で聖人が佐貫のあたりで三部経を千回読むということについて述べられていることをとりあげた。

下記に引用するように、このことは否定的に取り上げられているのだが、飢饉や戦乱などに出会った民衆のために、僧侶の身としてお経を読むということは、自然に心にわきあがってこられたことではないかという解釈である。
そうせずにはいられないということかもしれない。

そんな企画で映像も舞台の設営も台本朗読も報恩講企画会の手作り。
その中でたまたまメンバーの中でお一人が原文を、坊守が訳文を読むということになりリハーサルも1度だけの割には全体がとてもスムーズに運んだかなというのは我田引水か。

とてもよい経験をさせてもらいました。何しろ小学校の学芸会以来かも。

お寺の中でご門徒の皆さんと会うことができ、外でたくさんの同じ宗派の住職、坊守、また若手の寺族の皆さんとお話をする機会に恵まれていることは本当にありがたい。
64歳になりましたがこれからの歩みを考えさせられることが多いです。

○【現代語訳】 恵信尼消息 第三通
 善信の御房(親鸞聖人)は、寛喜三年(1231)四月十四日の昼ごろから、すこしお風邪をひかれ、その夕方からおやすみになっておられましたが、病気が次第に重くなられました。腰や膝をなでさせもせず、看病人も全く寄せつけず、ただ静かに寝ておられました。おからだにふれてみますと、体温が火のように熱く、頭痛も激しくて、ただごとでないご病状でした。
 さて、ご病気になられて四日ほど経た明け方、お苦しみのなかで、「まこと、そうであろう」と仰せになりましたので、「いかがなされました。うわごとを申されたのではありませんか」とおたずねしますと、「うわごとではありません。病気になって二日目から、『大無量寿経』を休むことなく読んでいました。ふと目を閉じてもお経の文字が一字も残らずはっきりとくわしく見えます。これはいったいどうしたことであろうか、不思議なことだと思いました。

お念仏をよろこぶ信心よりほかに、なにか心にかかることがあるのだろうかと思い、よくよく考えてみますと、今から十七、八年前にもっともらしく『浄土三部経』を千部、衆生利益のためと思って読みはじめたことがあったね。
これはとんでもない間違いをしている。善導大師の著わされた『往生礼讃』に、「自信教人信、難中転更難」とあるように、自ら信じ、人を教えて信じさせることが、ほんとうに仏の恩に報いたてまつることであると信じていながら、名号を称えるほかに、なにが不足で、お経を読まなければならないと考えたのだろうと反省して、読経を中止したことがありました。このような読経への思いが、いまなお少し残っていたのでありましょうか。

 人が一度思いつめると、それにとらわれる心と、自力への思いは、たやすく捨てきれないもので、よくよく注意しなければならないと反省したのちには、お経を読むことはなくなりました。このようなことで、病に臥して四日目の明け方に〝まは、さてあらん″といったのだ」と申されました。そしてまもなく、ひどく汗をおかきになつて、病気は快復されたのでした。

 このように、善信の御房が『浄土三部経』を忠実に千部読もうとされたのは、信蓮房が四歳のときのことでした。それは武蔵国なのか、上野国であったのか、わかりませんが、佐貫というところでよみはじめられて、四、五日ほどして思い返して読むことを中止され、常陸国へおいでになられました。

 信連房は未の年(承元五年(1211))三月三日の昼、誕生しましたので、今年は五十三歳であろうと思います。

  弘長三年二月十日     恵信

 ( 千葉乗隆氏の訳を参照させていただきました)

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