ある夜の出来事

来客があり外で食事をすることになった。
私たち二人、息子の家族4人、お客様2人。

食事も済み、帰ることに。
住職と私は順番にトイレに入り、まず私「かばんもってて」
次に住職、「じゃあ、お勘定して外で待ってるね」

外で皆で待っていたのになかなか出てこない、お腹でもこわしたかなあ。

皆には先に帰ってもらうことにして、しばらく待っていたが中に戻ってみると、トイレにはもう誰もいない。
気がつかないうちに外にでたのかなあ、変だんなあと思いつつ一人で家に戻ることにした。

その時はたと気づいた。かばんがない、預けたままだった。
困ったなあ、お金も、家の鍵もない、携帯電話もない。
歩いて帰る道すがら、いろんなことが頭にうかぶ。

まあ歩いて帰れる慶応中通だからまあいいけど。

私と外をつなぐものがない。
家に帰って誰もいなかったらどうしよう、近くの親戚のお寺かとまず一番に思いつく、そこがだめだったら隣のS家にピンポーンするか、いやいや誰か帰っているだろう、などととりとめもなく想いがうかぶ。

これが家の近くだからいいけど、家族も、知る人もなく、見知らぬ街でこんなことになったらどうしよう。急に見慣れた町並みがよそよそしいものに見えた。

そこで、前方にベビーカーを押すお嫁さんを発見!ああよかった家族がいた!

私を中根敬子として認めてくれるのは家族がいて妻、母、ばあばと呼んでくれる人たちがいるから。
お寺にいたら、住職の家内・坊守と思ってくれるご門徒の皆さんがいるからと思った。

私をつなぎとめている人たちがいる、絆がある。

絆の意味を調べたらもともとは馬、犬、鷹など動物をつなぎとめる綱とあった。

つなぎ止められるのも時にはうんざりだけど、キズナによって思いもつながっているのだと思う。
絆のもうひとつの意味は断つに忍びない恩愛、離れがたい情実とあった。確かに離れがたいものがあります。

恩愛はなはだ断ちがたくと親鸞聖人もご和讃でお書きになっておられました。

トイレ騒動から宗祖聖人までの道筋はちょっと無理なこじつけでした。

 恩愛はなはだたちがたく
 生死はなはだつきがたし
 念仏三昧行じてぞ
 罪障を滅し度脱せし
 高僧和讃

この和讃はお通夜のときにあげられるものです。

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