春近し

今朝お墓をお参りしたら、この寒さの中、墓地の日当たりのいいところに水仙のつぼみが出ていた、
乾いた土から、もこもこと葉を伸ばしている。
さっきお線香を上げたら、昨日の夕方供えたお花の水ががっちり凍って、もちろん水鉢も指でつついても割れないくらい厚く凍っていた。
寒い寒いが日常のご挨拶になっているが、少しずつ春が来ているらしい。
近所にお使いに出たら、公園には紅梅、白梅がいい香りを漂わせていた。

後2日で3月。
先日、住職の先輩の古希の記念祝賀会があり、その折に先生が書かれた法話集をいただいてきた。
それを見ていたら次の詩が引かれていた。
 
    限りなきいのちのひとを
 限りあるいのちを持ちて
 限りなきいのちのひとを
 恋たてまつる
 いきとし生けるもの
 いつの日か終わりあり
 されど終わりなきひと
 いますなれば
 一日のうれしかり
 一世のたのしかりけり
  
     坂村真民 「生きてゆく力がなくなる時」より

このお話は阿吽の像のことから始まっている。

『寺院や神社に阿吽の像がなぜあるのか、アウンと言う言葉はサンスクリット語の最初の字と最後の字。最初と最後を言う。いいかえれば人生の始めと終わり、生死を象徴している。

お寺や神社になぜ仁王様や狛犬があるのか。
この間をぬって参拝するものが単なる物見遊山や、即席のご利益を求めるだけでよいのか。
これらが語りかけるのはお参りするとき位、生死の問題、つまり自己の人生を謙虚に問う機会であってもよいはずだ。
ウンをゆるがせにしないことが求められている。

阿吽の世界が限りあるいのちの世界を象徴し、堂内に安置され具象化された「仏」の世界は限りなきいのちの源泉だ。
阿吽に象徴される有限にして煩い多き人の一生も、実はその深奥において、無量無限のいのちに感応してゆく途が開かれているはずだ』

長い文章からちょっとだけ載せさせていただいた。

明福寺の門を入って右側、白梅は先日来薄紅色のつぼみをまだまだ硬くしている。
お彼岸ころにはきれいな真っ白の花をさかせていると思う。
本堂に向かって、参道を歩きながら
仏様の無量無限のいのちの世界に歩んでいきたい。


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