あるたとえ

今日は、足の手術から2年、手術した病院に検診に行、大丈夫と言われて一安心。
一年前の予約だけれど、整形外科は混みこみ。
そう思って出版社から送ってきた冊子を鞄に入れてレントゲンを待つ間、診察を待つ間暇つぶしに読んだ。

フムフムそうだよと同感。それはこんなお話。

親がなくなるとしばらくして形見分けをすることがある。
宝石や着物どう分けましょうか。姉妹で話し合い。
これを読んだ川柳に次の様なものが・・・

泣き泣きに よい方をとる 形見分け

ここには3つの自分が示されている。

親が死んだと泣く「子供の自分」 
そんな自分を叱咤し、よいものを取られたら損だと考える「大人の自分」
そんな2人の自分を知っている「親の自分」

親の自分は形見分けが一段落した後、「私はいつまでたっても、あさましいままの人間だなあ」と自嘲する。

このように自我は3つの部分からなっている。

そしてこの3つの自分は互いに矛盾してなかなか調和しない。

確かにこうしたいという素直な自分。そしてこうしたら自分の立場はどうなるかを考える自分。いやいやそんな2人の自分をちょっと離れて冷静に見ている自分。

毎日がそんなじゃないですか?

もう一つ、先日の法話のご講師のたとえでした。南無阿弥陀仏のお念仏の声が出るとき、それは対面している大きな鏡の自分が写し出された時じゃないでしょうかというものでした。

毎日の生活を考えてみると毎度、鏡の中の自分だけ、そこが済んでから、あの時の自分が見えてきます。

あーあ、又だよ鏡の中の自分が前面。
 南無阿弥陀仏

アイ シー ミイ。

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